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1.kalacakraについて

1-1.kalacakra tantraについて

 仏陀。
一切の苦痛と無知を征服し、悟りを開いた全知者。 他の生きとし生きるものが救われんことを願って絶えず教えを説かれている。しかし、全ての生きとし生きるものには、当然、その気質と能力に違いがある。 その違いにあわせて仏陀は、様々の方法で悟りに至る道を説かれているので、各人はその心のレベルに応じて理解し、自分にふさわしい道を選んで実践していかなければならない。 二千五百年ほど前、歴史上の人物、釈迦が現れ、インド・ブッダガヤに菩提樹の下で悟りを覚得し、仏陀と成った。 しばらくの間、自らの悟りを味わい、楽しまれてからのち、その内容をどうして人々に伝えるか苦心されたが、梵天から悟りを人々に説かれるよう請われた。 そこで、広く仏教を説くために各地へ旅に出られた。 釈迦自身の直筆の著述はなされなかったが、‘是くの如く私は聞いた’という形で、釈迦の死後、弟子たちによって書きとめられ、数多くの経典が編纂されていく。
時間的、空間的展開の中で仏教は、個人を苦痛から救済する〈声聞乗〉と〈縁覚乗〉の道と、全ての人を苦痛から救済する能力を持つ完全な悟りに導く〈菩薩乗・大乗〉の道にわかれる。 この両者の違いは、悟りを得ようとする動機の大小と方法の違いであり、得られる結果の違いでもある。さらにこうした展開の中で、ヒンズー教、キリスト教・ゾロアスター教や土着信仰と接触していく過程で〈菩薩乗・大乗〉には、スートラによる道〈波羅蜜乗・顕教〉とタントラによる道〈秘密真言乗・密教〉の二つの道ができる。この二つの道によって得られる結果(仏果)は同じであるが、タントラによる道はより速く仏陀と成る技術をもつところに特徴がある。さらに、このタントラによる道は、修業者の能力や気質に応じて、クリヤタントラ・チャリヤタントラ・ヨーガタントラ・アヌッタラヨーガタントラの四部に分類される。
クリヤタントラは、他のタントラと較べて、内面的な禅定(ユガ)よりも、沐浴や罪を浄める儀礼などの外面的な行為に力をおく。
チャリヤタントラは、外面的な行為と内面的な禅定(ユガ)に等しく力をおく。
ヨーガタントラは、外面的な行為よりも内面的な禅定(ユガ)に力をおく。
アヌッタラヨーガタントラは、内面的な禅定(ユガ)に重点をおく。これらはクリヤタントラ→チャリヤタントラ→ヨーガタントラ→アヌッタラヨーガタントラの順に優れたタントラとされるが、これらに共通して先ず、〈波羅蜜乗・顕教〉に説かれる利他心を起こすことと六波羅蜜の実践が必要とされる。
アヌッタラヨーガタントラは、今この人生に於いて、仏陀となれる最短のコースであり、この上無いヨーガタントラという意味で(無上ユガ)アヌッタラヨーガタントラと呼ばれる。内面的な禅定(ユガ)の力の置き方によって、さらに三つに分かれる。
★父タントラ;外なる現象世界の生成過程を仏の智の働きとして深く見つめる〈生起次第・ケーリム〉の修業。方便・空に主眼をおく。
★母タントラ;内なる自らの身体を仏の身体として深く見つめ、コントロールする〈究ぎょう次第・ゾクリム〉の修業。般若・大楽に主眼をおく。
★不二タントラ;父タントラ・母タントラを統合した〈生起・究ぎょう次第〉を併せて修業する。般若大楽・方便空の統一に主眼をおく。

『カーラチャクラ タントラ』第五章 智慧品に「カーラとは大楽であり、チャクラとは空性であり、カーラチャクラとは大楽と空の不二を意味する」とあるように、カーラチャクラタントラは、無上ユガ部の不二タントラに位置づけられ、インド仏教を総まとめする重要なタントラとされている。また教義の重要な要素となっている天文暦学や占星術の理論はその後のチベット暦に取り入れられ、チベット人の文化・生活に大きな影響を与えている。そしてまた、カーラチャクラタントラはその成立と発展をシャンバラ伝説として説いており、シャンバラは、全てのチベット仏教徒がそこに生まれ変わることを願う理想の仏国土として、今も彼らの心の中に存在し続けている。
カーラチャクラタントラは、五章(品)からなり、四つのカテゴリーをもつ。

1-2.kalachakraの歴史・伝承

これまでのところ、カーラチャクラの成立・発展史の研究は殆ど見られない。これは、カーラチャクラタントラが後期密教経典群に属し、インド仏教滅亡直前に、かろうじてチベットに伝わり、チベット語に翻訳されたが中国には至らなかったこと、日本の仏教界は、祖師仏教に移行し、新たな経典の請来に関心を持たなかったため、現代にいたるまで文献が身近に存在せず研究対象たりえなかったことによる。当然のことながら、内にいるチッベト人は、熱心な仏教徒であるからして、批判的要素を含む研究には踏み込まない。
 伝説によると、九十六の王国を支配するシャンバラ国王、スチャンドラ王がシャンバラの人々を仏教に導き救済しようと願って、インドに趣き釈尊にカーラチャクラの教えを請うた。釈尊は涅槃に入る前の年に、ダーニャタッカの仏塔でスチャンドラ王に灌頂を授け教義を伝えた。スチャンドラ王は、シャンバラ国に帰り、カーラチャクラの立体マンダラを建立し人々に灌頂を授け、その教義を広めた。また、一万二千頌からなる根本タントラ『吉祥最勝本初仏タントラ王』を請来し、その註釈を六万頌からなる『大註釈書』に著した。それ以降、カーラチャクラタントラの教えは、シャンバラの七代の王と二十五代のクリカ王に受け継がれていく。初代クリカ王マンジュシュリキルティは、仙人スーリヤタハたちに奥義を伝授するために『吉祥最勝本初仏タントラ王』の要旨を千五百余りの頌にまとめ、摂略タントラ『カーラチャクララグタントラ』を著した。二代目クリカ・プンダリーカは、これを註釈した一万二千頌の『ヴィマラプラヴァ-(無垢光明)』を著した。(この両本がチベットに伝わり、チベット語に翻訳された。)
 チベット人は、カーラチャクラがチベットに伝わった年を1027年(ラプジュンと呼ぶ。チベット歴元年)とし、これより60年前にインドに伝わったとする.この時期インドは、内にはヒンズー教の各派が力を増し、外からは西北部からイスラム教が侵入しつつあり、仏教は衰退の一途をたどっていた。カーラチャクラタントラには、こういった背景を色濃く反映した内容が記されている。 【デブテル・ゴンポ(青史)】によれば、大成就者ティブシャブが著した『勝乗倶生成就法』に『ヴィマラプラヴァー(無垢光明)』の名前が記されていることから、後世のチベット人が言うより前にすでにカーラチャクラタントラは存在したことになる。ナーロパとデュシャプ父子は同時代の人で、デュシャプ父子の時代にカーラチャクラが現れ広まったと述べている。また、ペービルーパの『ヤーマンタカ輪顕明論』はカーラチャクラタントラに依ることが記されており、チルーパがカーラチャクラタントラを求めたという史実を述べている。また、チルーパがイスラム教徒の迫害を受けていないラトナギリの寺院を見て、覚悟するには密教が必要であると痛感しカーラチャクラタントラをシャンバラに求めた後、東インドに戻ったと述べている。 プトンの『時輪史』によれば、チルーパは、シャンバラで、文殊の化身から〈菩薩の三部門〉であるヘーヴァジュラ・チャクラサンバラ・カーラチャクラの灌頂、タントラ・註釈書を受け東インドに帰った。チルーパは、それを弟子のピンヅーパに伝授し、ピンヅーパはワレーンドラ出身のデュシャプチェンポに伝えた。デュシャプチェンポもまた、東インドでカーラチャクラを教授し東インドマンジュハ出身のデュシャプチュングに伝えた。デュシャプチュングは、カーラチャクラを知らない者は、秘密真言乗(密教)を知らない、とナーランダ寺で宣言し論争が生じた。デュシャプチュングは大勢の学匠たちを論破し彼らを弟子となした。こうして、カーラチャクラは、ベンガルのマヒーバーラ王朝のもとで広く流布していった。 ちょうどこの頃、カシミールのソーマナータがデュシャプチュングからカーラチャクラタントラの奥義をすべて受け継ぎ、カシミールに帰ってからチベットに行き、この教えを広めた。この時、タントラと註釈書のチベット語翻訳に協力したのがトゥ・シェラプタクで彼の系統を<トゥ>流と呼ぶ。デュシャプチュングの弟子、ソーマナータと並ぶマンジュキールチィに学んだのがネパール人サマンタシュリーで、彼がラー・ドルジェタクパにカーラチャクラタントラを教えた。ドルジェタクパはチベットに戻り、チベットに於けるもう一つの重要な系統〈ラー〉流となった。その後、〈ラー〉流は、チベット仏教サキャ派に重きをなすようになり、サキャパンディタ(1182~1251)と次のパクパによって〈ラー〉流の教学はチベットで大きな影響を及ぼすようになった。チベットの偉大な註釈者と呼ばれたサキャ派のプトン(1292~1361)は、初め〈ラー〉流を学び、その後<トゥ>流を学んだ。二大流派を兼学したプトンはカーラチャクラタントラの教義に新義を打ち出し、数多くの著述をなしており、これらの著作は現在でもカーラチャクラの研究に欠かせない資料となっている。プトンの弟子チョキペーは、ツォンカパ(1357~1419)にカーラチャクラ灌頂を授け、教えを伝授した。ツォンカパは、当時の堕落したチベット仏教界の改革者で、ゲェルク派の創始者として今もチベット人からたいへん信奉されている重要な人物である。彼もまた数多くの著述を残している。ツォンカパの弟子、ケートゥプジェ(1385~1438)は、『カーラチャクララグタントラ』と『ヴィマラプラヴァー(無垢光明)』の註釈や儀軌を著し、プトンと同様、研究には欠かせないものとなっている。
 現在、ダライラマ十四世とナムギェル寺の僧侶たちによるカーラチャクラ灌頂法会は、このケートゥプジェの儀軌に基づいて行われている。ツォンカパのもう一人の主要な弟子ギェータプダルマリンチェン(1364~1432)、初代パンチェンラマ、ロサンチェギギェーツェン(1567~1662)などの歴代のゲェルク派のラマたちによってカーラチャクラの教義が伝承(当然、サキャ派、ニンマ派などの他宗派に於いても同様に)されていった。現ダライラマ十四世は、リン・リンポチェとセルゴン・リンポチェから教えを受け、現在、世界中の人々にカーラチャクラタントラの教えを伝えている。

1-3.灌頂について

カーラチャクラに入門する者は、それにふさわしい者でなければならない。入門者は、まず菩提心を起こし、利他行に励み、六波羅密行を実践しなければならない。そして、入門儀礼である灌頂を受けなければならない。カーラチャクラには十一段階の灌頂がある。そしてこれらの灌頂を受ける前に、身心を浄め、灌頂を受けるにふさわしい弟子となるための準備の儀礼がある。次に、幼児の如く入る七つの灌頂を受ける。これで生起次第の道に入ることが許される。次に四つの後灌頂を受ける。かなり高度なレベルに達した弟子は、さらに四つの後後灌頂を受ける。後灌頂以降は究ぎょう次第の道に入ることが許される。最後に金剛阿じゃ梨の灌頂がある。弟子はこの金剛阿じゃ梨の灌頂を受けた師から灌頂を授かるのである。
{灌頂は特に密教において重要視される宗教儀礼で、もともと古代インドの国王の即位などの時、頭に水をそそぐ儀式であったものを、仏教がこれを取りいれたのである灌頂【abhisheka】は、本来、ふりかける、投げる、豊かさを施す、権威づける、浄める、力を施す、資格を与える、効力を植え付ける、品位を与えるなどの意味を持つ。}
の十五の灌頂は十一段階の灌頂に分類され、それぞれ菩薩の修業段階(菩薩地)に対応する。そして、初めの十灌頂は世間の灌頂。 十一番目の灌頂を出世間の灌頂とされる。
(2000/4/1記)

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